ヒールネスト・静かな随筆

転んで、立つ

完璧でいなければならないと、世界でいちばん思い込んでいるのは、人だけかもしれません。

子どもが転ぶと、大人は笑って手をたたきます。大人が転ぶと、心の中で、長い反省会が始まります。

小さな子どもが、部屋の真ん中に立っていました。

まだ歩くということを、よく知らないまま。

それでも顔だけは、たいへん真剣です。

まるで、自分の足元に広がる小さな世界を、これから治めようとしているかのようでした。

両手が、ふわりと上がります。

片方の足が、そっと前へ出ます。

もう片方の足は、その話し合いに参加する気がなかったようで、すぐに座り込みました。

子どもは、ぐらりと揺れました。

息をのみ、やわらかな座布団の上に、ころんと倒れました。

そして笑いました。

まだ、恥ずかしさというものを、だれにも教えられていない笑いでした。

部屋の空気が、ぱっと明るくなりました。

母親が手をたたきました。

祖父が笑いました。

誰かが言いました。

「もう一回」

誰も、その子に向かって言いませんでした。

「これは大きな失敗です。あなたは歩くことに向いていないかもしれません」

誰も、立ち直り計画を立てませんでした。

誰も、家の名に傷がついたとは言いませんでした。

子どもは転びました。

それでも、みんなは喜びました。

ところが、いつのころからでしょう。

その子は大人になります。

そして恋や仕事、お金、人との関係、からだのこと、これからの道のどこかでつまずいたとき、同じ人は、その出来事にまったく別の名前をつけるようになります。

失敗、と。

それを見ていた空は、少しだけ首をかしげました。

「人は不思議ですね。赤ん坊が転べば喜ぶのに、大人になると、転んではならないふりをして生きるのですから」

重力は、何も言いませんでした。

重力は、はるかな昔から同じ仕事をしているだけです。

それでも人は、毎回少し驚きます。

窓の外で、一枚の葉が枝を離れました。

謝りませんでした。

役に立てなかった、とも言いませんでした。

ただ、秋の中へ落ちていきました。

そして人は、それを美しいと呼びました。

転んだあとに笑う幼い子ども

自然は、落ちることを恥ずかしがりません。

雨は降ります。

雪も降ります。

夜も、静かに降りてきます。

種は落ち、葉は落ち、星さえ落ちることがあります。

滝は一日中落ち続けていますが、それでも人は、わざわざ会いに行きます。

川が、静かに言いました。

「落ちることを嫌がっていたら、海にはたどり着けません」

山が、古い声で続けました。

「私は毎日、少しずつ石を失っています。それでも人は、私を山と呼びます」

木は、風の中でしなやかに揺れました。

「嵐のたびに揺れてきました。でも、自信のない木だと言われたことはありません」

完璧という考えは、子どもが遊ぶ姿をあまり見てこなかった人が作ったのかもしれません。

子どもは、正直に転びます。

きれいに転ぼうとはしません。

人目を気にして転ぼうともしません。

肘で、靴下で、驚きで、少しの怒りで、時にはおやつのかけらをつけたまま転びます。

そして、どこも痛くなければ、朝の光のように立ち上がります。

大人は、少し違います。

一度転ぶと、自分を相手に、心の中で裁きを始めてしまいます。

証拠を集めます。

言い訳を退けます。

夜中に、あの場面をまた思い出します。

責める声はよく働き、助ける声はたいてい眠っています。

雨 葉 息 もう一度

けれど、からだはもっと静かなことを知っています。

私たちが歩く一歩一歩は、ほんとうは小さな傾きの連続です。

歩くとは、少し倒れかけて、戻ってくること。

つり合いとは、じっと動かずにいることではありません。

耳の奥、目、筋肉、脳、骨が、気づかれないほど細かく、何度も何度も立て直していることです。

私たちは、倒れかけるから立っていられます。

倒れかけるから、歩けるのです。

考えてみれば、それはとてもやさしい仕組みです。

からだは、ずっと前から、私たちにやり直しを許してくれていたのでしょう。

流れ落ちる川と滝

つり合いとは、転ばないことではなく、転びかけても戻ってくる、静かな身のこなしのこと。

長い歴史の中にも、何度もつまずきながら立ち上がった人たちがいます。

探検家は、勇ましい人と呼ばれる前に、何度も道を見失いました。

発明家は、ひとつの明かりが灯る前に、いくつもの試みを暗がりへ返しました。

空へ向かった兄弟も、はじめから空に受け入れられたわけではありません。

昔の職人は、土の機嫌を手が覚えるまで、いくつもの器を割りました。

音を外した音楽家がいます。

塗りつぶした画家がいます。

朝を迎えることのなかった紙を、静かに捨てた書き手がいます。

それでも人は、飛んだことを覚えています。

器を、歌を、絵を、言葉を覚えています。

その前に散らばっていた、数えきれない試みのことは、いつの間にか忘れてしまいます。

日本には、壊れたものへの古いやさしさがあります。

器が割れたとき、それを隠さなくてもよいという考えです。

金継ぎでは、ひびを金で継ぎます。

器は、割れたことのないふりをしません。

その跡を抱えたまま、前よりも深い表情を持つようになります。

もし器が話せるなら、こう言うかもしれません。
「私は終わったのではありません。少し形を変えて、ここにいます」

この言葉を、必要としている人は少なくないはずです。

終わったのではありません。

少し形を変えて、ここにいるのです。

悲しみによって。

病によって。

裏切りによって。

選び直したいと思う過去によって。

大きな音を立てて閉じた扉によって。

説明しきれないほど多くを持っていった季節によって。

大地は、冬が来ることを一度も謝りません。

それなのに人は、自分に寒い季節が来たことを、なぜ謝ろうとするのでしょう。

金継ぎの器

どこかで、ひとりの女性が、長く連れ添った人を失ったあと、もう一度笑うことを覚えようとしています。

どこかで、父親が、大人になった子どもに謝ろうとして、置き場のない手を握ったり開いたりしています。

どこかで、けがをした人が、以前は思い通りに動いていたからだの前で、静かに立ち尽くしています。

どこかで、年を重ねた人が、小さな画面の使い方を覚えようとしています。その画面は、かつて越えてきた多くの困難よりも、なぜか手ごわく見えています。

どこかで、画家が同じ絵を何度も塗り直しても、探している青にまだ出会えずにいます。

どこかで、友人が「ごめん」と書いては消し、また書いては消しています。心は、まっすぐになる前に、何度か下書きを必要とすることがあります。

どこかで、誰かがもう一度、人を信じようとしています。

大きな声ではなく。

勝ち誇るようでもなく。

ただ、静かに。

ほんとうに大切なことは、たいていそのように始まります。

ここから、冗談は少し遠くなります。

子どもが座布団に転んで笑う姿は、たしかに愛らしいものです。

けれど、大人が誰にも見えないところで転ぶとき、それはあまり笑えません。

その転び方に、病の名がついたり、別れがあったり、借りたものの重さがあったり、沈黙があったり、拒まれた記憶があったりするときは、なおさらです。

それでも。

それでもなお。

転ぶことは、立つことの反対ではありません。

転ぶことは、立つという営みの中に、もともと含まれていたものなのです。

いちばん苦しかったのは、転んだことではなかったのかもしれません。

転んだ自分を、隠さなければならないと思ったことだったのかもしれません。

平気なふりには、深い孤独があります。

人は、その姿を立派だと言うかもしれません。

けれど、見えない痛みを抱きしめることはできません。

私たちは、立っている姿ばかりを整えようとします。

その立ち方を教えてくれた地面のことを、隠したまま。

けれど、人を本当に救うのは、いつも立派な人ばかりではありません。

「私も、そこで転びました」

そう言ってくれる人です。

その一言で、部屋にまた空気が戻ることがあります。

今日の学びは、きれいにつり合うことではなく、ぐらつく自分と、少し仲直りすることなのかもしれません。

もう一度始める静かな時間

ここで、完璧にならなくても大丈夫です。

その役目は、もう世の中がずいぶん長く試してきました。

そして、あまり人を幸せにはしませんでした。

今日できることは、もっと小さなことかもしれません。

ぐらついたからといって、歩いてきた道のすべてを台無しにしなくてもよいのではないか。

やり直すとき、大げさな言葉を用意しなくてもよいのではないか。

つらい季節を、人生の判決ではなく、ひとつの季節として見てもよいのではないか。

つり合いとは、じっと止まっていることではありません。

つり合いとは、何度も傾きながら、また戻ってくることです。

いつも美しくはありません。

音を立てる日もあります。

涙が出る日もあります。

片方の靴下が見つからず、自分でも少し笑ってしまう日もあります。

それでも、からだは戻ってきます。

息も戻ってきます。

朝も戻ってきます。

そしてあなたも、自分ではまだ気づかない形で、戻ってきているのです。

窓辺で、年老いた祖父が、歩きはじめたばかりの子どもを見ています。

子どもは立ちます。

ぐらつきます。

一歩、進みます。

そして転びます。

祖父は、静かに笑います。

その子が転ばないからではありません。

転んでも、また立つことを、その子がまだ自然なことだと知っているからです。

そのとき、老人はふと思い出します。

自分もまだ、歩くことを学んでいる途中なのだと。

たぶん、私たちはみんな、そうなのです。

子どもを見守る祖父
転んだから、終わりなのではありません。

まだ、ここにいる。
それだけで、もう立ち上がりは始まっています。
立つこととは、転ばないことではなく、戻ってくることを忘れないこと。
温かな生姜茶

🌿 今日の静かな養生

温かな生姜茶は、つらい一日のあと、昔から台所で人を待ってきました。

薬としてではなく、助言としてでもなく。

ただ、ぬくもりとして。

両手で包む小さな一杯が、すべてを解決しなくても、少しゆるんでよいのだと、からだに思い出させてくれます。

窓辺の静かな音楽

🎵 今日の静かな音

もう一度やってみようとする人のそばで、黙って待っていてくれるような音。

急がせず、直そうとせず、いつ良くなるのかとも尋ねない。

ただ近くにいて、心が自分の足音を思い出すまで、そっと寄り添ってくれる音です。

そっと続きへ

🌅 そっと、続きへ

今日の言葉が、ぐらつくことも育っていく一部なのだと、少しだけ思い出させてくれたなら。

もう一歩だけ、進んでみてもよいかもしれません。

完璧ではなく、あなたの歩幅で。